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世界最高額の賞金である。
アメリカ人の個人年収が平均で312ドルだった。
この年に、Sの提示した賞金額は全米の競馬ファンのあいだでセンセーションを巻き起こした。
その額があまりにも衝撃的だったために、誰もこのレースを本来の名前では呼ばなくなった。
サンタ戦は、十万レース、あるいはハンナート・グランダーと呼び習わされるようになった。
Sがこのレースを考えついたのは、完壁としかいいようのないタイミングだった。
多くの州では、パリミューチュエル方式のもとで競馬をふたたび合法化しつつあり、その結果、競馬場の数は70パーセント増加した。
競馬は急速に、アメリカでもっとも集客力のある娯楽となっていた。
1934年以来、何百万という新しい競馬ファンがA競馬場に目を向け、十万ドルの賞金をものにするのは誰か、固唾をのんで見守った。
サンタ戦は一夜にして一級のレースとなったのだ。
馬主の誰もがそのレースでの勝利を夢見、Hも夫人のMも同じ夢を追っていた。
きっかけはJの誘いだったのかもしれないし、競走馬を何頭も所有していたビング・クロスピーだったのかもしれない。
あるいは自分たちが出資した金がつくり上げたトラックの、あまりに魅力的な眺めがそうさせたのかもしれない。
理由はどうあれH夫妻、とりわけMは、大レースでの勝利に情熱を燃やすようになった。
1935年、サンフランシスコのベイメドゥズ競馬場が新規開場した直後、Hはそこそこ見こみのある競走馬を集め、Bという売り出し中の調教師を雇って、育成にあたらせた。
厩舎はMの名義で登録された。
彼女は後のちまで語り継がれる勝負服をデザインした。
真紅と白のキャップ、白の袖、そして大きな白い三角のなかにHの″H″をあしらう、リッジウッド牧場の牛の焼き印で飾られた真紅のべストを纏っていた。
馬はいずれもそれなりに優秀だったが、Hの目はもっと高いところに向けられていた。
人が見向きもしないものに肩入れする癖があったHは、売りに出されたなかでも、とくにいつまでも馬場に取り残され、セリにかけられない馬ばかりを購入した。
ミラリックは若いながら有能な調教師だったが、新しく買った当歳馬と、早々に手に入れるつもりでいた十万レース狙いの馬のためには、最高の人材が必要だった。
1935年、Hは最高の調教師を捜しに出かけた。
同じ年、H厩舎の何百キロも南では、T・Sという練達のホースマンが、メキシコの競馬場で日々を送っていた。
いかり肩のなんとも地味な男で、口は重く、寝るのは馬房に置かれた簡易ベッド、フロンティアのどこかから姿を現して以来、競馬場の人間たちは、この男をこれっぽっちも理解できずにいた。
Sは基本的に無口な男だった。
質問されると、いつもふっと姿を消し、しゃべらされるからという理由で、社交的な集まりも避けていた。
何年もSを追いつづけた記者は、次のように記している。
「彼は挨拶代わりにうなずき、別れぎわには握手をする。
トータルでは百語も口にしていない」Sが誤って、足の指を斧で切り落としてしまったところを見たことがある、と証言する男もいた。
その時Sは、ブーツを逆さにして切断された指を振り落とし、ひとこと「わしの指」とだけ口にしたという。
厩舎の男たちは、こんなにもかたくなに沈黙を守る男には、なにか重大な隠し事か、後ろ暗い過去、あるいは桁はずれに立派な経歴があるに違いない、と噂した。
彼らはSの秘められた過去を、西部劇調の大げさな伝説で埋め合わせた、銀行強盗、ロデオのスター、インディアンとの勇敢な戦闘。
どれも真実ではなかったが、噂としては上出来だったため、Sは一目置かれる存在となった。
Sの真の姿はそれよりずっと興味深いものだったのだが、彼は決して自分の経歴を他人に明かさなかった。
当時のSは56歳。
だが歳よりもずっと老けて見えた。
進路をそれた馬のひづめとか、おかしな場所に立てられたフェンスの柱とかに、ぶつかりそうな感じだったが、実際にはそれ以上、あごを引くことができないのかもしれなかった。
無色透明な雰囲気をただよわせ、このままだといずれ完全に透明になってしまうのではないかと思わせた。
いつもかぶっている灰色の中折れ帽を珍しく取り、薄い髪の頭をさらした時も、よほど目を凝らさないと、灰色の髪と灰色の顔の境目はわからなかった。
無帽で写された写真を見ると、そのまま背景の空に溶けこみ、目だけがぽつりと宙に浮いているようだ。
カメラマンによっては処置なしとばかりに、Sの顔の輪郭を描きこみ写真を修正してしまう者もいた。
運よく頭つきの写真が撮れたとしても、巨大なシャベルのようなあご以外の造作は帽子のつばの影になって判別不能だった。
口から上で見えるのは眼鏡だけ、しかも眼鏡のレンズには、きまってカメラマンの姿が映りこんでいた。
いずれにせよSは、まずカメラのほうを見なかった。
その目はいつも、馬に向けられてメキシコはこのカウボーイには、旅路の果てに行き着いた場所に思えた。
ここの厩舎には、いくら頑張っても並以上の成績は残せそうにない馬が一頭いるきりだった。
T・Sの若かりしころ、馬にまたがった彼が野生馬の群れを囲いこみながら、平原を注意深く進んでいく姿をインディアンによく目撃されていた。
19世紀も終わろうとしていたころから、彼はいつも独りだった.実質的に彼は、馬以外の誰とも口をきかず、馬と話す時も、ちょっとした仕種とやわらかな音という馬たちの言葉ローンプレインズマンを使った。
インディアンたちは彼を″孤高の大平原児″と呼び、白人は″むっつりT″と呼んだ。
人間は単に、彼のうわっつらを軽くなでていく存在にすぎず、馬だけが、彼のことを深く知っているらしかった。
馬はSの人生を通じて、もの静かな研究の対象だった。
彼は馬を操る技術が生きていくのに必須の条件であり、呼吸をするのと同じとされる世界で育った。
天才ならではの、動物に対する本能的な理解力をもって生まれ、全身全霊で馬につくし、馬は彼の身体の一部になっていた。
生まれつきなのか経験によってか、ひかえめな態度やぶっきらぼうな感情表現まで馬そっくりだった。
人間が相手だと、Sは早口でけんか腰になった。
だが馬が相手だと、なんとも優雅に落ち着いてでひとり食事をとり、それ以外の時間は馬とすごした。
競馬場の人々は、この男がやってきてしばらくは、厩舎のベンチでハム&エッグを朝食にとりながら、その素性についてちょっとした議論を闘わせていた。
だがそのうちに彼の無口に慣れ、なんの関心も払わなくなった。
彼の経歴は、吹きさらしの平原の雪に残されたひづめの跡のように猿としていた。
中西部の大草原地帯の出身で、そこで1899年にイギリスがしかけた南アフリカ戦争に徴用される無数の見えた。
野生馬をイギリス陸軍の騎兵部隊用に調教していた。
もともとの馬との関わりは少年時代にまでさかのぼり、ほかにも鹿狩り、羊飼い、クーガー狩りなどに手を染めていた。
馬にまたがったカウボーイが指揮する牛の群れの大移動にも参加した経験のあるベテランの調教師だった。
時や場所は特定できないが、彼の周りにはいつも馬と開けた大地があった。
妻はいたと思われるが、あくまでも推測にすぎない。
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